2013年 08月 01日
Exposition "Atelier Ukita"
7月31日(水)、浮田要三先生のアトリエの展示を手伝う。
昼前、一人娘の唯さんに、浮田先生の作品がたくさん飾ってあるダル・ブリガンテ(環状線福島駅近く)というピザ・レストランに案内いただく。

午後2時、今里にあるAtelier Ukitaに到着。もと袋縫製工場を利用したもので、壁がペラペラ。展示は、大工仕事からやり直さなければならなかった。

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大きな帽子の作品が暗がりの中にぶらさげられていたので、吊り直した。
帽子は浮田先生のトレードマークだった。
先生がここにおられる気配がした。

シャープで色鮮やかな作品群。
みごとなテクスチュアの感覚。
最期まで無垢な魂に寄り添った人生。

アトリエUKITA オープン・ギャラリー展
8月3日(土)〜5日(月) 11:00〜18:00
〒537-0013 大阪市東成区大今里南2丁目5-6




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唯さんから、児童詩誌『きりん』の発行に関する貴重な記事の載った『思想の科学』(1954年11月発行、第7号)のコピーをいただいた。
記事は、足立巻一「地方文化の渦・大阪〜童謡雑誌『きりん』の歩みから」。
中に荒い網点の写真が一枚載っていた。『きりん』の発行所だ。
足立氏の文章を引用しておく。

(『きりん』の)発行所は大阪市西区本田町2の44、日本童詩研究会。
この『日本童詩研究会』という看板はいささか堂々としすぎていて、ハッタリの感じがないでもない。事実、編集兼発行所はその名に比べてあまりにも小さすぎ、はじめての人は絶対にといってもいいほどその所在を探しだせない。振替口座はあっても電話は一本もない。
大阪の古い遊廓の一つ、松島新地と電車通り一つへだてた東側の、二坪のバラックが発行所だ。それも電球交換所の裏庭に立てられているので、道路にも面しておらず看板をかける場所もない。だから『きりん』をたよってわざわざやってきた先生や子どもはいつもマゴマゴするという。おまけに付近一帯は戦災で焼けたままになっているところが多く、雑草がほこりをかぶって茂り、きわめて殺風景である。
バラックはトタンぶき、板壁で物置小屋よりも貧相で、内部も板敷、折りたたみ式手製の寝台兼机が空間の半分以上を占め、板壁には活字ケースと手刷印刷機がもたせかけてある。こんなありさまなので『きりん』は発行所の貧弱な点でも全国有数といえるかもしれないが、そこはその上、発行所であると同時に編集兼発行人星芳郎さん夫妻の住宅でもある。窓も一つで通風がわるく、床が低いので湿気がひどい。(p.94-95)


写真の中の浮田先生は当時29歳。ちょうど唯さんが生まれる直前だったという。

浮田先生は、大阪の明星商業学校を卒業、上級学校に進むべく浪人しているうちに軍隊に招集され、9ヶ月で敗戦になり、復員した。別に詩や文学、芸術に関心があったわけではなかった。
『きりん』の編集に携わることになったのは偶々だそうだが、それが「具体」と交わる浮田先生の希有な芸術人生のきっかけになった。

それにしても、写真にうつる『きりん』発行所のバラック的な構造は、大工仕事で手直ししたばかりの今のアトリエUKITAに通じるものがある。
アトリエは道路に面し、空間もはるかに大規模なのだが。

浮田先生は出発点に帰られていたのではないか。
いや生涯ずっと人が生きる原点から離れなかったというべきか。
いみじくも当の『思想の科学』の特集タイトルは「どう生きるか」。

僕もまた、芸術とも文化とも無縁な旋盤工の貧乏長屋に生まれ、たまたま出会った美術によってなんとか生を保っている。

やはり「偶々」こそが芸術と人生の原理なのだ。



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by peuleu3 | 2013-08-01 10:35 | art


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